どんな人?
慶應義塾大学SFCを卒業後、プロデューサー修行を経て、2014年には国際的にも認知度を持つゲーム音楽のプロオーケストラ「JAGMO」を創設。昨年2021年には、コロナ禍中、文化芸術経済発展を目指すイノベーションファーム「YHIAISM (イア・イズム) 」を創設。文化芸術経営のリーダーシップ支援のプログラムを国際的に展開、世界配信のオペラ公演や歌曲公演プロデュース等、多岐に渡る文化活動を行う。
HP: https://www.yhiaism.co.jp/
twitter: https://twitter.com/yhiaism
経営者とプロデューサーの視点、更には文化政策への関心も強く、独自の切り口と熱い想いを持つ。これからの音楽業界や日本文化の発展を牽引していかれるに違いない。
取材日:2022年6月18日
前編では、幼少期からの興味関心が生の音楽・日本音楽・古代文明にあったこと、高校時代にはアメリカに住まわれて舞台や文化の違いを体験されたこと、大学は今まで培った人脈から導かれて慶應義塾大学SFCへ進学したこと、学部を通して経営や社会起業についてとことん勉強されたこと、それらを経て「やはり音楽や芸術のことをやろう」と決意されたことを伺いました。
──大学の卒業後はどのような活動を始められたのでしょうか?
丁稚奉公から始まりました。恩師の坂井直樹さんに「音楽や文化を生業にしたいので、業界で一番“悪い人”を紹介してくれませんか」と相談に行きました。なぜ最も悪い人かと言うと、やはり特殊な力が渦巻く世界ですからね。並外れた恐ろしさのある方に弟子入りすれば、極地を知れますよね。いざ挑戦する時に、これ以上はない、と、いらぬ恐怖心を持たずに済むだろうと考えたからでした。
そうしたら、間髪入れず「象(しょう)ちゃんだ。」と仰った。どんな方ですか?と聞くと「川添象郎といって、東京に残る最後の貴族」だと。後藤象二郎の末裔で、父は高名な文化プロデューサーでイタリアンレストランキャンティの創設者である川添浩史、母はショパンコンクールで日本人で初めて入賞したピアニスト原智恵子、本人はプロのフラメンコギタリストであると。プロデューサーとしても一流で、YMOやユーミンをプロデュースした鬼才であると仰る。どんな方か想像がつかないまま、怖いもの知らずでしたので「是非お願いします」と頼み込みました。そうすると「坂井の紹介だと言えば返事がくる」と名刺を渡されました。
──そして名刺に記載されている連絡先にご連絡されたのですね。
はい。ご挨拶のメールを送信すると、直ぐ様、電話が鳴りました。アシスタントでご子息の川添太嗣さんからで「明日事務所に来て下さい」というシンプル内容でした。今でもその電話を受けた時のことを鮮明に覚えていますが、不思議と、自身の天命に即して進んでいるという確信を持ちました。
初めて伺ったその日から、泊りがけでの丁稚奉公が始まりました。実に修行らしく、朝は掃除から始まります。プロジェクトは大変な数が同時進行、参画者は時代を築いてきた伝説的な方ばかりです。課題が次々に現れ、滝のように新しい情報を浴びました。眠る時間はほとんどありません。大変厳しい環境でしたが、今思い出しても毎日が刺激的で、充実していましたね。
丁稚奉公期間の泉志谷氏 隣にはプロデューサーの川添象郎氏
──大変刺激的な日々だろうと推察します。では、具体的にどのようなことを学ばれたのでしょうか?
学んだことは無数にあります。先ず、文化というものは、長い歴史の中で培われてきた人類の知的進化の集合体であるということです。当たり前のことですが、その表面を取ってかじって金儲けに利用するとか、似たりよったりなものを風に仕立てるような生き方は無礼ですね。象郎さんは、自然体でいて心身を削り、文化に貢献する姿勢を貫かれていましたから、自分もそうあろうと、肝に銘じています。
象郎さんの関わられた作品は、YMOや松任谷由実さんが代表的ですが、ミュージカル《ヘアー》の日本公演も社会現象となった伝説的な作品です。あとは、お伺いした初日に聴かせて頂いた、ジャズ・フュージョンアルバム《深町純&ニューヨーク・オールスターズ・ライヴ》が鮮烈でしたね。ドラムはスティーヴ・ガット、ピアノはリチャード・ティー、ベースはウィル・リー、ヴィブラフォンはマイク・マイニエリといったトップミュージシャン揃いの音源です。
象郎さんの手がけられる作品は大衆に愛されながらも格式高く、清澄な空気を纏うので不思議に思っていました。その謎は、日々彼の話を聞いていくにつれ明らかになりました。
マグナム・フォトのロバート・キャパ、思想家の仲小路彰、ファッションデザイナーのピエール・カルダン、画家のダリ……彼が思い出を話す時に出てくる方々は歴史に名を残す偉人ばかりです。それでいて、一つの領域に限定されません。象郎さんが持つ深い教養や智性、学際性が、彼の作品の空気の正体ではないかと感じました。
プロデュースをする上で、文化分野を分け隔てることも、誤っていたと反省しましたね。そもそも、音楽をつくり、売り、歴史に遺るものにする時に必要な素養は、音楽だけではありませんからね。
才人の審美眼を知れたことも大きいですね。芸術や文化の創造に必要不可欠なものです。ただ、多くの方もご存知の通り、大衆受けする作品というのは、必ずしもそういった審美性や、智性は要求されません。わかりやすさや、即物的な心地よさが"売れる"きっかけ"になることがあります。そんな相反する二つを共存させ、活かし合う技術が、象郎さんの中にはあるのだと感じました。細い針に糸を通し続けるような、繊細な感性が要求される、普遍的共感に到達する高度な技術です。手仕事のよう目には見えませんが、職人性があり、暗黙知としての型や、極意のようなものもあります。
実は、日本にはプロデュースを専門に学ぶことが出来る高等教育機関はほぼありません。国内の文化を盛り上げていくためには、文化プロデューサーの教育基盤を整え、技術を学べる場をつくることが必要ではないでしょうか。そのためにも、プロデューサーの技術を可能な限り可視化し、言語化していくことは、私の世代でやるべきことだとも思っています。象郎さんが最近出版された著書《象の記憶》は、一次情報として、まさにその基盤たる存在ではないかと思います。文化的にも貴重な文献です。
川添象郎氏の自叙伝《象の記憶》(amazon)
──プロデューサーの教育はたしかに重要ですね。
そもそも「プロデューサー」とは何なのか、というところについても重要だと思いますが、泉志谷さんのお考えをお聞かせください。
今や「プロデューサー」という名称は、ありふれた、広義な言葉になってしまいました。ただ、真たる「プロデューサー」とは、確固たる技術と固有の文化性を持っています。オーケストラでの、指揮者や音楽監督に近い立ち位置で、同時に作曲家でもあるような存在です。指揮者は、楽器や楽曲について深く理解し、的確な方向を示す技術と、無二の個性があります。プロデューサーはプロジェクトにおいて、言葉や態度でそれを示し、プロジェクト実現までチームを先導します。その対象は、音楽表現の機微から、マーケティング戦略、人事や折衝、予算やスケジュールと、幅広い領域です。
その元となる企画書をつくる力も重要です。それは音楽で言う作曲のようなものです。指揮者によってオーケストラの音色が変わるように、プロデューサーにも「色彩」が存在します。もしその「色彩」がないのであれば、いてもいなくても同じですから、それがプロデューサーの存在価値だと思いますね。
──プロデューサーがあらゆる領域での判断をするからこそ、その「色彩」が生じるのかもしれませんね。泉志谷さんのプロデューサーとしての初仕事は何だったのでしょうか?
独立して初めての仕事はゲーム音楽専門のプロ交響楽団JAGMO(JApan Game Music Orchestra)の創設とプロデュースです。今はもう関わっておらず、私がいたのは2013年末から2016年秋までの期間です。
元々は、友人でヴァイオリニストの尾池亜美さんのご紹介で、ゲームクリエイターの遠藤雅伸さんとお会いしたことに始まります。私はその頃25歳。なかなか非常識で、生意気な若造だったと思います。遠藤さんの寛容さに助けられ、取り立てて頂き、彼が代表理事を務めていたゲーム音楽交響楽団の公演プロデュースを請け負うことになりました。それがJAGMOの始まりです。
2014年の泉志谷氏 主要JR駅に公演広告を出稿時
今でこそゲーム音楽は、オリンピックの開会式でオーケストラ演奏が使われ、日本発祥の音楽の一つとして広く認知されています。2016年にはルイ・ヴィトンが《ファイナルファンタジー》を広告に起用していますし、最近では、現代アートの世界でダニエル・アーシャムが《ポケットモンスター》とコラボレーションしています。昨今話題のNFTでも、CryptoPunksや村上隆作品は、ゲーム特有の「ドット絵(ピクセルアート)」の形式が使われています。しかし、JAGMOを始めた当時はハイカルチャーとの文化交流は少なく、「ゲーム」と言えば俗で、「文化」や「芸術」と呼ぶにはほど遠い、短絡的な「娯楽」として認知がつきまといました。
しかし、デジタルの時代を牽引する歴史的にも存在意義の深い媒体であることはもちろん、特に物語を有するRPG(ロールプレイングゲーム)の分野には、文学や映画、舞台に似た特性があり、思想密度が高い作品がいくつも生まれていました。坂口博信さん、天野喜孝さん、植松伸夫さんらによる《ファイナルファンタジー》はその筆頭ではないでしょうか。《クロノ・トリガー》も素晴らしいですね。原始、古代、中世、現代、未来を行き来しながら、世界の崩壊を食い止めるべく、時代を超えた仲間と奮闘する物語です。不朽の名作とうたうにふさわしい、現代にこそ必要な考えや、恒久性を持つ問いかけにあふれています。
──確かに、物語を持つゲームは、文学作品や映画とも似ています。では、ゲームならではの特性というものはどこだとお考えですか?
芸術作品を人間の思想の結晶と捉えた時、ゲームは他の媒体よりも享受の段階において能動性を要求されることが特徴ですね。ただ「読む」「見る」「聞く」にとどまらず、コントローラーを用いて自身の手指を動かし、画面の中のキャラクターを動かすためです。
実際、JAGMOのお客様の多くが、ゲーム音楽の生演奏を聴いた時、ゲームの記憶のみならず、自身の人生の追憶と紐付けられる方が多くおられたことが印象的でした。音楽を通じ、子供時代の思い出が心に満ちてくるのです。
それはゲーム作品を享受する時、心身の能動性を要求されるからこその現象ではないかと推察します。客席で涙を流される方も多くいらっしゃる。仕事として関わり始めてから、再度《ファイナルファンタジー》などのゲーム作品をプレイしてみましたが、大人になった今でも発見に満ちた物語で、なぜそうなるのか、腑に落ちたものがありましたね。
──ゲームの名作は、子供の頃にも楽しめ、大人でも発見がある作品だということですね。
そのとおりです。もちろん、全てのゲーム作品が高い思想密度を持つかと言えばそうではありませんが、それは文学や他の芸術分野においても同様でしょう。
余談ですが、ニューヨーク近代美術館「MoMA」では、2013年にいち早くゲーム作品を永久収蔵品に加えました。ジャンルは「インタラクション・デザイン」です。もちろん、日本のゲーム作品も収蔵品になっています。
──ゲームは海外での評価の方が高いような印象を受けますね。JAGMOは海外公演もされたのでしょうか?
はい。むしろ、フランス公演の盛り上がりは国内以上でしたね。弦楽四重奏の演奏で大歓声、スタンディングオベーションです。ゲーム文化の可能性を強く感じました。日本の、しかも、我々世代の文化でもありますから、初仕事としては恵まれた、適性のあるプロジェクトでした。
JAGMOのコンサート風景
──一度その様子を見せて頂きましたが、歓声がすごかったですよね。
初仕事での成功の要因とは何だったとお考えでしょうか?
時期にも恵まれました。先ず同世代に素晴らしい音楽家がいたこと。ちょうど指揮者、斎藤秀雄先生の孫弟子が多い世代で、その恩恵を受けているように感じます。次に、ゲームの名作にも恵まれたこと。主に1990年〜2000年代のRPGをメインに取り上げましたが、まさに黄金期です。当時のトップクリエイターたちが結集した作品が多く、生半可なコンサートにしてはいけないというプレッシャーがありました。
そして、聴衆にとっても良い時期でした。子供の頃に《ファイナルファンタジー》等のRPGで遊んでいた世代の多くが、社会に出始めた、稼ぎ始めた頃です。私もそのひとりです。JAGMOを立ち上げたのが26歳の頃ですから、比較的、可処分所得・時間に余裕がある時期でした。そのように、享受者の時期や環境が成熟していることは、文化プロジェクトの成功において重要なことだと思います。
あとは、人にも大変恵まれましたね。前述の尾池亜美さん、遠藤雅伸さんはもちろんのことJAGMOを共に立ち上げた、師、川添象郎さんのご子息である、川添太嗣さんはキーパーソンの一人です。当時22歳とは思えない彼の胆力、センスと技術無しに旗揚げコンサートの成功はあり得ませんでした。
そして2014年から2016年に音楽監督と指揮を担っていただいたクラリネッティストの吉田誠さん、ソリストとして出演頂いたヴァイオリニストの三浦文彰さん、ご出演いただいた演奏家の方々がいてこそ、あの音楽が響き渡りました。それに加え、ゲーム音楽コンサートは、編曲も作曲に匹敵する重要な役割です。音楽監督も兼務頂いた作曲家の深澤恵梨香さん、彼女は今では《舞台 千と千尋の神隠し》の音楽監督など、様々なビッグタイトルを担い大活躍しています。後にオペラ公演でもご一緒する作曲家の松﨑国生さんも、稀有な色彩を持つ才能の持ち主です。彼ら無しにJAGMOの音楽は存在しません。こればかりは縁の巡り合わせですので、ただ、ただ、幸運でした。
JAGMOのコンサート風景
JAGMOがゲーム音楽交響楽団として世界的認知を得て、ムーブメントに至ったのは、最初期にその可能性を信じてくれた方々がいたからでした。運営面を技術・経済面よりサポート頂いた綜合舞台の徳弘健太郎さん、サンライブプロモーション東京の近藤富英さん、そしてステージマネージャーの故 浅野武治さんらはその筆頭です。パロネージュプログラムへご支援頂いた方々、様々なメディアJAGMOを紹介頂いた記者の方々、ここには書ききれないくらい多くの方にご支援を頂き、文化が育っていきました。
──そういった多くの方々の助けがあってプロジェクトが広がっていったんですね。その後、オリンピックでのゲーム音楽の起用等につながっていったかと思いますが、文化や芸術としてゲームが認知されていく転換期のようなものはあったんでしょうか。
そうですね。2016年夏にサントリーホールでの最大規模の公演が成功したことも個人としては大きな節目でしたが、同年秋にNHK音楽祭にゲーム音楽の特集番組《シンフォニック・ゲーマーズ》が生まれた影響は大きかったと思います。ゲーム音楽を西洋古典音楽の様式で演奏する文化にとって、契機であると思いますね。そして、奇しくも、その番組ディレクターは、大学時代に音楽の世界へと引き戻してくれた友人の齋藤琴子さんでした。
泉志谷氏 サントリーホールにて
──運営が順風満帆であったにもかかわらず、2016年10月にプロデューサーから退く決断をされたのはなぜなのでしょうか?
ちょうど2016年10月の《シンフォニック・ゲーマーズ》放映後、JAGMOのプロデューサーを退任しました。元々、文化芸術に広く携わっていきたいという気持ちがあったこと、辞め時だと確信する出来事が重なったことが理由ですね。大きなムーブメントに対して、当時、私の力不足で至らないことも、反省すべきことも、実際は多くありました。
もちろん生みの親としてのさみしさもありましたが、当時のディレクターの山本和哉さんがプロデューサーを引き継いでくれることになり安心していました。最近は、感染症の影響もあってか活動が難しい状況のようですが、良い形で着地することを祈るばかり、というのが私の立場ですね。
──そういった経緯があったんですね。では、もし、ゲーム音楽全体に対して思うことがあればお教えください。
JAGMOが、ゲーム音楽生演奏の黎明期たる存在となれば、大局的な意味での文化貢献は叶います。今後、後世が「JAGMOのやっていたことは古い、これこそゲーム音楽の生演奏だ」と、新たな文化が発展していけば、JAGMOにとっても、きっと幸福なことです。私も、新たな公演をやる時は、未来を過去の如く考え、先に進むことを心がけています。